多分違う、という直観。覚醒という言葉にさえ囚われることなかれ。
- 2025.07.10
- コラム

こんにちは。さきちです。
7月も半ばに入って参りました。
暑いですねぇ。
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さてさて。
トントントンと
私の人生という名の道のりに置かれたハードル。
泣きべそかきかき進んでまいりました。
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みなさまもきっと
それがハードルなのかどうかも認識しないまま進んできて、
苦しんで悩んでときに立ち止まりながら
なんとかやってきたのではないでしょうか。
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わたしはこのブログで
自分が苦しみながらも理解してきたこの世の仕組みのようなもの、
絶対に自分の言葉で
腹落ちしたことを書くと決めてここまでやってきました。
その助けになったのはさまざまな情報ではあるものの、
それでも
自分の中で納得したものだけを
自分の言葉で綴ってきました。
だから
このブログは、私の
ある意味で
悟りのプロセスを書いたものと言えます。
つまり私はこれまで自分なりの”悟り“を目指していたわけです。
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悟り、覚醒、目醒め、解脱、
いろんな言葉で表されるけれども
恐らく目指しているものは
同じような意味合いのものなんだと思う。
全ての煩悩、悩み、苦しみから解放された状態。
言うなれば、
いつでもどこでもどんなことがあっても
自分の内側には、揺るぎない平和あるいは幸せがある状態。
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だけれども。ここには1つ落とし穴があると思う。
以前から感じていたことだけれど、
目標を定めた瞬間、
その目標と自分との間にギャップが生まれる。
目標に達していない自分を(潜在的にせよ)否定することになる。
できていない、なっていない自分を見つけることに他ならない。
それは例え
“悟り”を目指すにしたって同じこと。
今とは違う別の自分を求めている。
その時点でもはや
悩みや苦しみを伴う道を選んでいるのと同じことだと私は思う。
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それじゃあ、目標なんて持たずにただ
今この瞬間にだけいればいいのだろうか?
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確かにそうなのかもしれない。
でも、一般の主婦には
とてもじゃないけど現実的ではない。
今この瞬間にいるには、
瞑想か瞑想に類似することをしなくてはならない。
瞑想のように家事をする?
それもやってみた。
でも子どもがいたら到底無理だ。秒で瞬殺される。
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もちろん、できるの人であればすれば良い。
するにこしたことはないだろう。
私もそんな風に頑張っていた時期があった。
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でも
私はさまざまな方法を試した上で
自分に合った方法をようやく見つけた。
というより
自分が本当に望んでいることはなんなのか分かったのだ。
悟りでもない。
瞑想でもない。
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私がやりたいのは…
単に自由に生きることだ。
やりたいことを、やりたいときにできること。
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これが私が望んでいて、自分を満たし、
満たすことで自然と本来の自分に戻り、
最終的には
己の人生の目的を達成できる方法だと思う。
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え、なぁんだ。そんなこと?
そう!そうなの、実はそんなことなの。
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でもみんなが望んでいるのはきっと、
そんな自由だと思うよ。
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好きなことを、好きなときに好きなだけする。
たぶんやりたかったことはこれ。
だけど、
100%何らかの制約を受けている。
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だからできない。
世間体、金銭的なこと、場所的なこと、時間的なこと、身体的なこと、
あるいは心の問題かもしれない。
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私たちは限られた時間や空間、
その他の制限の中で
最大限好きなことをするために生まれている。
生活の中で
これをしたいなと思った瞬間、
同時にその希望を打ち消す自分がいる。
これを、人生で何千、何万、何億、何兆回と繰り返していることだろう。
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その度に、自分の心が小さくなっていく気がする。
自分の想いを
どうにかして叶えてあげることが
私たちのやるべきことで
唯一開かれた悟りへの道なんじゃないかとさえ思う。
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もともとこの世が物質にまみれた制限の世界なら
制限の中でどうやったら自らを解放できるか?
それを試しに来てるのではないか、と強く感じる。
この世の制限を
自分なりの方法でかいくぐり
自らを解き放つ
それこそが私たちの使命なんだと思うよ。
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そろそろみんな
自分を解放するときだ。
どうやったら
心を自由にできる?
自分なりの方法を探して実行して
自分を満たしてたくさん笑って
走って転んで、それでも立ち上がってまた走ってさ。
風に吹かれて、飛んで、泳いで、花や木とお話して
そうしているうちに
やがて自然に変態してあおむしは蝶になる。
自由にいこう。
心の鎧を脱いでいこう。
覚醒さえも囚われの枠組みにすぎないということに気づいたなら
自分に愛を向けるだけ。
小さな希望の光を打ち消さず
そっと灯し続けること。
それだけでいいのだ。
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