死はプロセスである、という考え方で楽になる
- 2024.11.22
- コラム
こんにちは。さきちです。
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今日は、”死についての捉え方”について書いてみようと思います。
私は子どもの頃、
小学生低学年の頃には、すでに死が怖いという感覚を持ってました。
遅かれ早かれ死への恐怖は芽生えてくるように思いますが、皆さんはどうでしょうか?
私のことを言うと、
自分が死ぬというよりも、
家族がみんな死んで、1人残される(孤独)という恐怖に怯えていました。
まぁ、妄想というほとでもないのだけれど、
下校の途中にそのことについて真剣に思い悩むほどには怯えていました。笑
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あなたは
死をどんな風に捉えていますか?
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私は数年前、
父が脳梗塞になり意識不明になったとき初めて、
身近に死を感じるという経験をしました。
そしてまた、取り残される恐怖が思い出されて
心が震えました。
パニックになりそうになりました。
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私たちは一般的に
生きて、死んで人生が終わり。
私というこの命(心停止)が尽きた時点で
その存在も、跡形もなく全て終わる。
あとは無というか闇というか‥
そんな風になる。
と感じているように思います。
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でも、作家であり医者でもある
矢作直樹さんが言うには
死はプロセスである。(プロセスに過ぎない)
ということ。
私はこの言葉を聞いた時、
カーン!と乾いた音がして
頭を軽く殴られたような衝撃を感じました。
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簡潔に言うと、
“死”を重たく捉える必要はない、
ということなんです。
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私たちは生まれてこの方、
この世界の物事を無意識に『捉えて』きていますが、
どんな風に捉えるか?について
あまりに他のものからの影響を受けすぎています。
そのことについて振り返ることはなく
受動的に情報を積み重ねていっています。
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死は恐ろしいもの?
死はおどろおどろしく忌み嫌われるべきもの?
なぜ?
それは死んだ人の身体がやがて硬くなり、
いずれ腐敗することから?
ドクロのイラスト、ホラー映画、凄惨な事件や事故から?
多くの偏った情報による印象に影響を受け過ぎているのではないか。
そんな風に思うのです。
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魂が抜けた遺体は、
ある意味”モノ”に成り変わり、
生きていた時とは比べものにならないように
本能的にそう感じるとは思う。
その外観に恐怖を覚えることも、至極当然のことだと思う。
そして残された者たちは悲しみに暮れるし、慰みを必要とするけれど、
亡くなった人は、実際次の場所へ行く準備や
あるいは
いったん休養のような形を取るのだと私は感じている。
つまり、死んだ人の魂というか本体というかは
今生を終えても続くということである。
私はそう信じているし、確信している。
理由は、この身体に乗っている”私の本体”のようなもの(たぶん本体のコピーみたいなもの)が
“私”という存在を動かし生かしていると思うから。
この体の機能を超えた何かを感じているからです。
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この人生が終わる直前に、
死というプロセスを体験するのが
ある種楽しみでもあるし、
それまではしっかりやるぞ!
という気持ちもあるから
お互いに(大切に想う存在であるからこそ)
この世では等しく仲間であって、
死はプロセスに過ぎないという気持ちを持って
死は今生と来世との橋渡しの位置付け。
そんな風な意識で
淡々と、そして楽しんで生きればいいのではないか
と思う今日この頃です。
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