山深い神社に行って起きた出来事とこの先生きていくヒント。

山深い神社に行って起きた出来事とこの先生きていくヒント。

こんにちは。さきちです。

 

この2年間、大きいものから小さいものまで山陰の神社を130社以上巡りまして。

ちょっと怖い想いなんかもしながら(爆)、楽しんでフィールドワークを続けてきました。

 

その中でも、自分にとって思い出深い神社というのがやっぱりいくつかあります。

今回は出雲の立石神社(たていわ神社)という場所に行ったときに感じたことを書き残してみたいと思います。

 

古代からの信仰 磐座(いわくら)

磐座(いわくら)というのは、いわゆる古代から続く日本に根付いている巨石信仰における神の依り代(神さまが降りてくる所)となるものを言います。

日本人であれば誰でも「おてんとうさま(太陽)」とか「お月さま(月)」、「山の神」「海の神」、「巨木」や「巨石」といった自然のモノを尊び敬う考え方を持っています。

そのうちの一つが巨石信仰であり、磐座になります。

 

磐座というのは、日本の各地にいくつも存在していますが、山陰においても調べればたくさん出てきます。

中でも有名なのが、先ほど述べた立石神社ということになるかもしれません。

大国主命の孫神「多伎都比古命(たきつひこのみこと)」を祀る立石(たていわ)神社は、通称「たていわさん」と呼ばれている石神様です。雨乞いの神様として知られており、ここで祈祷すると必ず雨が降ってきたという言い伝えがあります。
社は無く、高さ10数メートルもある3つの巨大な岩そのものがご神体です。

出雲市HPより

ここは、知る人ぞ知るパワースポットと言われていて、誰でも知っている有名どころの神社というわけではないかもしれません。

でも、圧倒的な存在感を持つ巨石と、その場所に流れる清浄な空気はこれまで感じたことのないエネルギーの壮大さで、とても印象に残っています。

立石神社、本当にすごいのでもし機会があったら行ってみてくださいね。

巨石から生えた木

立石神社というのは、”神社”と名前は付いていますが、皆さんが想像するような大きな社はありません。

「石そのもの」がご神体としてそこに存在しています。

 

かつての縄文人は、こんな風にとてつもなく大きな石が山の中に存在していることに畏怖を感じたことでしょう。

立石神社の巨石は、巨石というだけあって、いくつもの大きな石が山道を歩いていると突然現れてきます。(と言っても公道から歩いて5分ほどです)

 

そしてよくよく見ていると、磐座と呼ばれる巨石の周りにある大きな石から巨木が生えていました。

↑すごない?これ。

 

石から木

巨石と木がまるで一つの生き物のよう

 

巨石の間から木が生えているのを見て、私には何かがポーンと降ってきました。

 

「すべてはひとつである」

 

通常の思考からすると、石から木が生えてるのを見て

 

「えぇ?なんで石から木、生えてんだろ」と思ったとしても

「あぁ山奥だもん、石から木が生えることも、まぁ…あるかもね」ぐらいで通り過ぎていたと思います。

 

でもこのとき感じたことは、私の中でとても今でも大切にしていることなのですが

石も木も究極的には同じもの(小さな粒子)である。

ということなんです。

 

同じ物資であれば、一つになれる。石から木だって生えてくる。

粘土を想像してください。粘土は小さな粒つぶの塊であって、そこからどんなものも形作ることができます。

だから石のようなものを作って、その上に木のようなものを生やすことだって簡単にできます。それを無理だと思っているのは人間だけだよ、と。

 

わたしには石と木がすでに一体化していて、共に生きているように感じたのです。

「石と木は別々の物質であり、決して交わることはない」と、常識的にそうとらわれていたら、このように感じることはできなかったと思います。

 

そしてさらに続いてポーンと降ってきたことは

 

「地を通じてそこに立っているあなたも同じ」

 

石と木が同じならこの地面も同じ。

この地面を通じてそこに立っている人であるあなたも同じ。

地を通じて繋がっているすべてが同じものでできていると感じました。

 

わたしという存在

私たちが生まれてこの方持っている「わたし」という意識。

「わたし」と感じているこの体はなんなんだろうと考えると、「わたしであって、わたしじゃない」という気がします。

 

日常とを生きる上では「わたし」という個人で生きている。

名前があって、動かせる体があって、したいと思う行動ができる。様々なことを考えることもできる。

決して隣の人と体かくっついて離れない、なんてことはない。(笑)

個人を意識すること、それはそれで大切なことです。

 

しかし、私たちは大~きな枠背後に感じるエネルギーとでもいうのか)では、この世界全体と繋がっていて、「わたし」個人ではないという感覚がします。

 

なんとも表現しがたい感覚ではあるのですが、そう思うのです。

 

ふっと自分の意識が”今いるこの場所”を離れて、電線がある位置(空中)から自分を見つめている気がすることがあります。

自分は家の中にいるけれど、一方で、鳥のように外で空を飛んでいる自分も同時に存在しているような…感覚。

私は車を運転しているけれど、別の感覚では空から街を見下ろして車が家から出ていくのを見ている自分もいる感覚。

私が何か行動すると、「おー今日はそれをするのか!」と喜んで見守っているもう一人の自分もいます。

 

選択に迷ったとき、急に上の方に意識が抜けて「この人には何をさせてあげるのがいいだろうね?」と相談する複数の存在を感じたりもします。

 

まぁ…人に言うと結構ヤバイ感覚だと思うので、誰にも言ったことはありませんが。(笑)

 

何かになるのではなく、何を経験するか

これまでのことを総合して考えてみると、私たち人間にとって「誰であるか(何者であるか」というのはあまり重要ではなくて、

人生において何を経験し、何を感じるか、そしてそこから何を得た(学んだ)かがとても大切だと思います。

 

それでは個性を無視していいのかというとそうではなくて、

行動に結びついていく道すじ個性なんだと思っています。

 

花が好きな私(個性)⇒花を育てる⇒ガーデニング知識を得る⇒教える⇒学ぶ(経験)⇒仕事として広がる(おまけ)

みたいなイメージです。

そもそも自分を大切にしなければ、自分を見つめてあげなければ、個性というのは見えてこないので、この世に生まれた時点で自分を大切にするというのは大前提だと思います。

 

個性を軸にして行動していく。

これがこの先の混とんとした世においても人生という道を作っていく基本になると思っています。

 

自分の個性が分からないのであれば、興味のあること・面白いと感じることを手当たり次第にやってみてもいい。

1年でも3年でも10年でも、たとえどんなに時間が掛かっても、死ぬまでに自分が心からやりたかったことを見つけられたら万々歳!だと思います。

どんな小さな心のときめきも逃さないようにしてください。それが何かのきっかけであり大事なヒントです。

 

誰に認めてもらえなくてもいい、「あなた」が感じた希望の光を信じること。

私たちが「わたし」という分離した意識を持っている意味は、そこにあります。

 

最初の話に戻ります。

私たちはそもそも一人ではないのだから(粘土で言ったら一つの塊)、

この世界で何か肩書き(社会的な役職や家庭的な役割、一個人としての名前)をもっていたとしても、それはほとんど意味はなくて、

あなたが「何を経験したか」ということが、この世界をより良い方向へと向かわせる大切なエッセンスになっていると感じています。

(私たちがその時々で出すエネルギー集約され世界は創られている、もっと言うと、あなた自身があなたの見ている世界を創っているということです。)

 

経験というのは外向きの行動が主になるけれども、どんな気分でいるかや何を考えたかといった内面とかかわることも大きく言えば行動と言えるから、自分の内面をどう平和に保つかというのも一つ大切な行動であり経験だと思います。

 

内面を平和にそして豊かに保ち、そのときどきで「わたし」にさせてあげたい行動をしていくことがこの世界を楽しく生きるコツかなぁと今は思っています。

 

おしまい。

 

 

 

 

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