視点を増やすこと、別の視点を受け入れること
- 2024.01.20
- コラム
こんにちは。さきちです。
2024年1月20日土曜日 雨
唐突ですが、あなたは視点が多い方ですか?
大人になって人生を振り返った時、良かったなと思えたことは、視点が増えたことだと思うさきちです。
物事を見た時に、いつのまにか白か黒かで判断することを覚えた時、無意識のうちに生きることがめちゃくちゃ苦しくなっていきました。
0か100か。
合格か不合格か。
良いのか悪いのか。
こういう二元的な考え方をしていると、脳は全てにどこかで線引きをしようとし始めます。
人に会った時、良い人が悪い人か。友達になれるか、なれないか。
何かの知識を学んだ時、役に立つのか、たたないのか。テストに出るのか、出ないのか。
ニュースを見た時、良いことなのか悪いことなのか、どちらが悪いのか。
そもそも『この世界は白黒が付けられる』と思った時点で、そこに一つのフィルターが生まれます。自分が生まれたときには持っていなかったフィルターです。
私たちは、生きているだけでこのフィルターを次々に増やしている状態なのではないでしょうか?
絵にしてみました。
勘違いしやすいけれど、フィルターを増やすことは、視点を増やすこととは違います。
この厚いフィルターは、物事をどうにか分別して分類分けしようとするための道具だからです。
視点増やすというのは、このフィルターの外に出て、表や裏、いろいろな角度から物を見てみること。
そこに”判断”や”ジャッジ”はありません。
私たちが物を見た時、そのものの全てを理解して判断できることなどということはあり得ません。
なぜなら私たちは物事の一部しか目にすることができないからです。どんな場合でも、です。
ニュースにせよ、実際目にした出来事にせよ、わたしたちはそのすべてを最初から最後まで、あらゆることを見聞きすることなどできません。
あり得ないのに、人は便宜上、判断をしたがります。
これは、ある程度の年齢になってフィルターがしっかりしてくると、自動的に起こっているように思います。
例えば、娘を見ていて、幼稚園の年長組ともなると、自分の中にそれなりのルールが構築され、”良い悪い”があると感じるようになっています。
フィルターを増やすことは、判断基準を増やすだけ。
視点を増やすためには、フィルターの外に出て、自分の価値判断を超えたところから見てみる必要があります。
視点が増えれば増えるほど、それがマトリックスを出るということだと思います。
自分の目で見ていることや思うことが全てだと思わずに、あらゆる人の立場に一度なってみること。
絶対的な悪だと言われる者の立場にも、一度なってみること。
例えば…
私は、子供を虐げる大人は良くないと思っています。絶対悪だと。
自分の中で揺るがない悪があるとします。
そんな者の立場になってみるなど、おぞましいという気持ちがします。
でも、そんなときこそ、ここで自分がその枠に囚われていることに気づく必要があります。
子供を虐待する親(もしくは他人)にはどんな事情があるか、私たちは知ることができないのです。
まともに知ることができなければ、判断することはできません。
もしも虐待している親も、虐待されていた過去があったとしたら?その親もまたその親も?
負の連鎖の一部にすぎないかもしれない。
だとしても…というその先の判断を私はしなくていい。私がするべきことではない、という気が強くします。
私たちは、自分以外のことについて意識が向きすぎているし、それらについて善悪の判断を自動的にしすぎていると思う。
もしもある出来事について何か判断をしたいと思う時には、自分のフィルターを通さずにフィルターの枠から出て、俯瞰的にまた多角的に見る必要があります。
どんなに悪だと感じられる出来事も、遠く遠く高い空から見てみること。
視野をグッと広く高くすること。
そして他人に意見を迎合することなく、かといって衝突させる必要もなく、
自分の中に分裂や否定を作らず、
いつも穏やかに過ごせる状態でいること。
これが大事。
これだけでいい。
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