自分という境界線をゆるませると‥とてつもなく楽になる。

自分という境界線をゆるませると‥とてつもなく楽になる。

こんにちは。さきちです。

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私はもしかしたら

とても大きな前提となる部分を

勘違いしていたのかもしれない。

自分らしくとか

そのまんまの自分とか

そんなの考えなくて良かった。

ただそこに在る。”

それだけで‥

すべて始まり、そして完結していた。

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エゴをなくすとか

思考をなくすとか

内側を見るとか 

そういった

スピリチュアルや哲学の考え方を用いて

あるいは瞑想や修行で

悟りとか覚醒を目指すということは、

ある種、この世界での生きづらさをなくしていくことを目的としていて、

そこを目指して

みんなそれぞれの道を歩むわけだけれど。

そもそもさっき言った

エゴをなくす

思考をなくす

内側を見る

というのは、実はすべて

『自分』という確固たる存在を前提として行われる作業であり

盲点になりがちだけれど

全て『自分』を中心としてさまざまな技法(チャネリングとか手放しとか)考えられている。

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これがエゴかどうか?

これが思考かどうか?

こういった考え方自体、

“自分発信”のものを判別する作業だし、

“内側を見る”と言うときにも

自分とはどんな存在なのか?

ということを見ているんだから

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どこまでいっても

結局自分とは何か?

という問題から離れられない。

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たとえ

全てはつながってるとか

ワンネスだとかいったところで、

それですら実は

“自分”というものがあるという前提で、

“繋がり”や”1つ”

という観念を考えている

ということに気づいていない。

繋がりは自分と他との繋がりだし、

“1つ”を考えている時、その”1つ”を見ているのは私という存在なのであって

どんなときも自分から切り離されていない。

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私たちはいつも

自分という存在の個別性と対峙しているし、

あなたには何ができる?

何をすべきで、

あなたは一体どんな人か?

という問題を突きつけられる社会で生きていて

自分とは何か?なんて考えなくてもいい。

なんていうことは言われたことがない。

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もしかしたら

どこかで言われていたのかもしれないけれど

少なくとも私は

生まれてからそのことに気付けるチャンスはなくて、

全くと言っていいほどその視点を持てていなかった。

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全ては自分を中心に。

自分を理解してこそ。

理解して、その上で要らないものは手放していくこと

そういう順序だと思ってた。

確かに世界は

自分を中心にあるのかもしれない。

けれどその自分が何であるか?ということは

考える必要がないということ。

それがポイント。

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そして重要なことは

自分なんてものは、そもそもないという理解。

自分なんて、曖昧そのもので

やりたいと思っていたことは数分後には違うことに変わっていて、買おうと思っていたものも忘れるし、泣いたと思ったら笑っていて。

いつまで経っても理解できるものではないんだって実感する。

自分を知るなんてことが不可能なんだとわかることが

まずはどんなことより最初だった。

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自分なんてものはない、とわかったら

急に枠組みがドンと外れて

ものすごくゆるむことができて

自分らしさなんて考えなくても良くなって、

自分の振る舞いに対しての心の中にある規制がなくなるし

どんな自分だって自分だと受け入れることも容易になる。

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自分という境界線をなくすことが

本当は一番大切だった。

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自分はこんなタイプだとか

自分はこういう性格だとか

何が似合ってる何が似合わないとか

自分らしいとか個性とか

そんなことも考えなくてよくて

そのときその瞬間、思ったり感じたりやりたいと思ったことを肯定して

それが自分だ!とかそんなことも思わなくて良くて

ただ淡々と

粛々と

“そのままの状態”を表現する。ただ行っていく。

そんな感じ。

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今ある自分がどうか?と考えた途端に

自分を振り返った瞬間に

急に『自分』という存在の輪郭がはっきりしてくる。

そのことに気付くと

過去にあった思い出も振る舞いも

どうでもよくて

全てが今に集約していることを思いながら

自分を表現するとかそんな堅苦しく考えずに

自然にしたくなってやってしまうことやできることをやっていく。

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自分に対する評価もなし。

肩書きも地位も言うなれば性別とか年齢とかそういうのもなし。

軽くて力の抜けた状態でいる。

それでいて強くてまっすぐに立っている。

そんな感じ。それがベストだと感じている。

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