【溢れる想いの深層心理】向き合うのが怖い、認めるのが怖いことを捨てる。
- 2025.01.28
- 2025.02.28
- コラム

こんにちは。さきちです。
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いやぁ、昨日久しぶりに感情が大爆発してしまいました。
予期せず、前触れもなく。
でもそれがあってよかったなと今は思っています。
感情の残りカスとでもいえば良いのか。
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進学とか就職とか引っ越しとか
大きな変化をすると
必ず良くも悪くも
自分の内側にあった
これまでのモヤモヤが浄化されるってことが起こる。
それは今までに何度も経験していて
だけど経験するたびに
自分のより深いところにある固定観念というか
まるで自分自身だと勘違いしているような
“信念”のようなものが
ぶち壊されるような体験をしてきた。
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それは本当にまるで
自分が居なくなってしまう感覚であり、
自我の崩壊とも呼べるような
とても怖い感じがするものでもある。
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私は夫との間で
付き合った当初からさまざまな違いを目の当たりにしてきて
その都度乗り越えてきたつもりで
彼から学ぶことはとても多かった。
だけど私は本当の意味で
彼の器の大きさ、
その懐の深さを理解できていなかったのかもしれない。
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彼は、自分の考えをベラベラしゃべる方ではなく
話しているうちに
こうじゃない?と言うことはあっても
それを押し付けることはしないし
いつも私に対して
自由で寛容なスタンスでいてくれた。
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だけども
ときどき何を考えているか分からなくて
彼の行動に冷たさや
私への無関心さを感じることがあり
なんとなく寂しさや悲しさを抱いていた。
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でも…
私は心のどこかで何か理由を付けては、
彼にそれを言うこと・思いを伝えることを
避けていた。
いや、以前は何度も
懸命に私はぶつかっていた。
全身全霊で彼と対話を試みていた。
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しかし、私はここ数年
自分との間で対話を繰り返し答えを見つけては満足していた。
心の中にある多少の違和感には目を瞑り、
彼と本気で向き合うことを諦めたのかもしれない。
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そして
少しずつ見えない距離を置いていった。
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そんな選択をしている自分に気付いていたし
歯痒く思ったりもしたけれど、
感情が大荒れになるくらいなら、
私のエネルギーを大きく消耗するくらいなら、
それでいいと思っていたのです。
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しかし昨日の私は
何度目かの違和感をそのままにできない状態になり、
なぜだか冷静に
『伝えるべし』と決意して、
夕飯後のお皿洗いをする彼に対し猛然と歩み寄り、
『せっかく慣れてきた新居で、何も言わずに勝手に物の位置を変えるのをやめてほしい』
と伝えた。
彼は驚いた表情をしていた。
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私はこの時点で、すでに涙を流していた。
私はこれまで何度こんなことをしてきただろう。
何度こうして
彼に果敢に挑んできたことだろう。
『私が決めた場所、私が良いと思ってしたことを勝手に何も言わずに変えるのをやめてほしい』
『それは、まるで私がやっていることに意味がないと言われているように感じる』
本音だった。
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物の位置を変えることなんて
はっきり言って取るに足らないことだ。
私が本当に言いたいのは
『自分のしていることが無意味である』
ひいては
『自分には価値がない』と言われているように感じる、ということだった。
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でもそれは
私が私自身に本当は感じていることであり
彼の行動は、それを知るための単なるきっかけに過ぎないことも、本当は知っていた。
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彼は私を抱きしめて『ごめんね』と言った。
そして、彼の頭の中にある行動の指針にはいつも
【私が楽であるように】ということがあるのだと私に言った。
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何も言わなくても
私が楽になることをしよう、といつも思っていると初めてそう言った。
決して、私に無価値観を抱かせるためにしている行動ではないことも。(もちろんそうだろう)
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私は彼に自分の感じていることを話しながら、
同時に自分の感情を丁寧に見つめていた。
言葉を選んで彼に伝えながら、
自分自身とも真剣に向き合っていた。
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そして、少し時間が立って理解した。
感情が表に出てきたということは
その感情が、
無意識レベルではもうすでに処理が終わっているのだということを。
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いわば感情の残りカスが
最後に私にさよならを言いにきた、そんな感じだった。
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私の無価値観はそこで、終わった。
長年付き合ってきた無価値観との関係に
ついに終止符が打たれた瞬間だった。
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翌日のこと。
また新たなる”気づき”がやってきた。
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私は頑張ることをやめた。
この世ではほとんどの人が”頑張っている”が、そこに向き不向きがあることに、私はようやく気付いた。
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そこには性質的に合う合わないがあるし、
そして時期がある。
頑張る時期、そして頑張らなくていい時期。
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私はすでに数年前から頑張る時期は終わっていた。
でも頑張ることがやめられなかった。
自分の人生の流れを見つめ直した時
分かったことがある。
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私はこれまでずっと、
何か目標にむかってがむしゃらに頑張ることを美德としていた。
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人生の前半は
なんとかかんとか頑張る人生で切り抜けてきた。
だけど、くじ引きはいつも当たらないし、
頑張ったところで
受験はいつもすべり止めしか受からなかった。
人の期待に応えるために、頑張ることを諦められない人生だった。
ずっとずっと頑張ることを握りしめて離さなかった。
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でも私は
40を目の前にして、ようやく気付いた。
私は頑張らないほうが、上手くいかのかもしれない。
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天はそのようなタイミングになったか、
あるいは、ずっとそうだったけどもうそろそろ気付け!と言ってくれてるのかもしれない。(笑)
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なぜならば約10年前、
彼と結婚してから
彼はずっと私に言っていた。
『休んでて』と。
私は思っていた。
『いや、頑張らせて』と。
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私は日常でいつも頑張っていた。
料理も英会話も子育ても。
もちろん楽しんでいる部分だってあるけれど、
いつでも頑張る何かを探していた。
隙あらば次に頑張ることを求めた。
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それが通常モードだった。
頑張らなきゃ人生ヤバいことになる。失敗する。
頑張らない自分には価値がない。
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だけど、、、しんどくて何もできないとき、頑張ることをやめたとき、
必ず助けが来ることも事実だった。
初めての子育てで
赤ちゃんに心疾患があるとわかったとき、
そのタイミングで東京から母が来てそばにいてくれたし、
私が買い物に行けないようなとき、お義母さんはいつも助けてくれた。
父が倒れたとき、次女が生まれたばかりで動けない私を兄弟が助けてくれた。
思えば愚痴を吐き出せる旧友はいるし、
辛いとき見上げればお日さまが照らしてくれて
自然を見て癒される心を思い出すようにサインをくれた。
子どもたちは大きくなり、
こんなすぐ泣くへなちょこな私でも、嫌がらずに(多少は嫌がってるかもだけど)側に居てくれる。
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私は何もしなくても
ただここにいて、
純粋な心で
人を好きでいていいんだ。
自然を愛して
小さいことに喜びを感じていいんだ。
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それを本当に
心底理解した瞬間だった。
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人と同じじゃなくていい。
この月並みな言葉が
ようやく氷解した私の心に
まっすぐと届くようになった。
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40年間頑張りつづけた心が
『もう頑張らない』と言った。
ようやくその信念が降参した瞬間だった。
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私はただこのまま生きていけばいい。
それを選択していい。
受け入れていい。
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私はずっと前に
無価値観から卒業したように思っていたけど
時間差があって
最後の断末魔のような叫びが聞こえて
そしてそれは去っていった。
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私はまるで映画を観るかのように
どこかその無価値観を眺めていた。
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心の深いところで
まるで自分と同一だと言うかのようにぴったりとくっついた強い感情。
でもそれは…
本当の自分とは全く違う。
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なぜなぜどうして?
本当の自分とは、無価値とは正反対な
自分が微笑むだけで周りが癒されることを知っている
全てを包み込む光を放つことが当たり前の
何にも動じない
何とも比べる必要がない
己が己であることすら意識しない
そこに在って
光が届こうが届くまいが関係なく
圧倒的にただ在るだけ。
価値という概念を超えた
存在だった。
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私はただ
私でいればいい。
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その意味は
ある種、透明と言えるのかもしれない。
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とてもクリアで
思考がない
来たものをキャッチして
感じるけれども
またすぐ手放す
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それでいいんだ。
そう。わかった。
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