どっしり構えてまっすぐ行け

どっしり構えてまっすぐ行け

こんにちは。さきちです。

少し間が空いたかしら?笑

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この間(かん)、雪がたくさん降って

楽しいような煩わしいような

どんよりした雲間から覗く青い空を見上げながら

物思いに耽ったりしていました。

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でもほとんどは子どもたちと遊んだり

料理をつくったり、掃除をしたり、服を作ったり

日々に追われていたわけで。

特段メッセージを受け取るでもなく

淡々と季節は流れていきました。

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“そのとき”というのはいつでも突然で、

何故だか”わかる”瞬間というのがあります。

それはあくまで自分の中の個人的な感覚であって

誰に話してもきっと

『そうそう、わかる!』

という反応は得られないようなものなのだけれど、

今日訪れた”ソレ”も

自分の中で納得できるメッセージだったので

受け取って、

また書き残してみる次第であります。

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今日、ふっと落ちてきたメッセージは

タイトルの通りで

どっしり構えてまっすぐ行け』

だったわけです。

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これは、どうやら順番が大事で

『どっしり構えて』

『まっすぐ行け』(行く)

なのであって、

『まっすぐ行って』

『どっしり構える』

わけではないわけですね。

笑。

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つまりこの言葉には

常にどっしり構えていることを前提として

己の道をまっすぐ行くことが大切。

というメッセージなわけなんです。

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私たちはふだんの日々の中で

ハートのあたりに己の心

(あるいは魂といった

俯瞰的で理性的な本質的なものがあるとするならば)

その心と身体は完全にピタッと一致せず、

頭で考えることが多いために

心は頭のほうへと

ふわっと浮いているように思うんです。

これは個人的な感覚ですが…

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ふわっと浮いている状態では何が起きるか?というと

たとえば

人のこと(家族のこと、世界のこと)がやけに気になったり、

心配事が次々浮かんだり、

何かに悩んでいたいような状況が生まれます。

逆に言うと

そういうことばかり考えている自分に気づければ

それはふわっとしちゃってるときだなっとすぐに分かります。

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心配ごとに心奪われているというのは、

自分の前に一本道があるとするならば

道草しているような状況ですね。

本来道草は楽しいけれど

上記のような例の道草の場合

あまり良い気分になることはないと思いますが笑。

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とにかく

周りのことに目が向いていたり

目の前のことに集中できず

ひとつのことをやりながら他のことを考えてしまうような、

あるいは過度にいろんなことを心配して(感情移入など)

心が重い、気が重いという状況になっているように思います。

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前段の”どっしり構えて”というのは

心と身体をぴったり一致させて

容易には心が揺れない状態を言い、

“まっすぐ行け”は

周りを気にせず、己の道だけ見て進め

ということなのかな、と感じています。

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例えば

行きたいお店があるならば、

その途中にあるさまざまな魅力的なお店に誘惑されることなく行け。

ということでもあり、

その心は

他人の評価やさまざまな情報に惑わされることなく

己の感じたことを信じきること。

また己の経験を軸として

その先に自ずと現れる道を迷わず進む、ということ

なのかなと思っています。

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難しいかな。

信じるべきものは自分の中にあって

それがどんな結果を生もうともそれは全て”よし”

であり、

そこに疑いを挟まず

今あるその覚悟を貫いていくことなのかな、とも思う。

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信じる何かは

人によって違うし、

それはそれぞれで良くて

時に譲り合って助け合って離れることもあるけれど

それでもまっすぐに

どっしり構えて

まっすぐ行く

だけ。

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お金という存在を度外視したとき

あなたは

何がしたい?

心から望むものはなに?

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私はあたたかい家族に囲まれて

ただ安らぎの中にいたいかな。

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それを守るために生きたい。

そしてその道中で、

心からやりたいと思ったことに全力で取り組みたい。

そんな風に思う午後なのでした。

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それじゃあ、またね!

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