こころがなければ五感を感じられないということ。

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いつも心の側に立っていなくてはならない。

それが私の今回の重要な気付きです。

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ヨガをやる人、ある種の悟りに興味のある人は

“こころと身体”についてさまざまな学びを得てきていると思う。

それは知識として、あるいは体験として。

こころと身体は一対。不可分な1つだと。

どちらも重要だと。

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私もこれまで、ヨガを細く長く続けてきて、

同時にさまざまな知識を吸収して

心って?身体って?

ということに自分なりに向き合ってきた。

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小さな神秘的な体験もいろいろした。

何より多くの気付きがあった。

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だけれども、

どこか『こころ』『意識』という

(この文章ではこころと意識は同じものとして書いています)

捉えどころのないものの正体が掴めずにいた。

掴めなくて正解なのかもしれないとも思った。

でも、今日、

ようやくその体感が得られたので、

ここに書き残しておこうと思う。

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チベット聖者の教えという本の中に答えはあった。

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私なりの解釈も加えて要約する。

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私たちの心と身体は一対である。

私たちは日頃、五感(見る、聞く、触るなど)をとても重視している。

しかし、ベースはこころ(意識)の方である。

見たり、聞いたり、触って物事を感じ取ることができるのは、こころがあるからである。

こころがなければ、私たちは何も感知することができない。

というような内容だった。

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私はこの瞬間に、

これまで持っていたこころと身体に対する概念が静かに崩壊した。

これを文章にするのはとても難しい。

あいまいだが、こころと身体について強い思い込みがあった。

こころと身体は不可分一体。どちらも同じだけ他方に作用する。

確かに

身体とこころとはあまりに精妙につながっている。

だから、身体が感じたものが、すなわち心が感知したものとそんな風に捉えている。

心と身体は渾然一体で、切り離しはできないと。

それこそが『私』だと。

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でもこの本のこの箇所をを読んだ瞬間に

私の中で明確に心と身体が分離した。

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身体が送るのは電気信号である。

ある意味でこれは無機的なものに違いない。

でも、それが心に伝わると

一瞬にしてそれは有機的な温かみを持って、

まるでその感覚が自分であるかのように感じることができる。

心と身体の間にはとてつもない作用が起こっている。

身体の信号が心に伝わった瞬間、

私たちはそれを自分が感じていると認識できる。

心がなければ

そこには単に事象があるだけ、なのである。

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私はこのことがようやく理解できた。

目で見ることは脳の働きだと思っていた。

だけれども、その信号は心に届いて

ようやく私の心象に写る。それは決して無機質ではない。

ありありと、今ここにある情景として、胸に迫る。

感動が伝わる。

視覚を通して、心に届いた信号を

美しさという多面的な表情で知ることができる。

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身体の働きを感知して

より豊かに”私”を感じられるようにしているのは

心だった。

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私たちは心がなければ何一つ

人間らしく存在することはできない。

それがどんなひどい感情であれ、痛みであれ

喜びであれ、温もりであれ、

心がなければ

私たちが当たり前に享受しているものは

全て無機質なものになり宙に消える。

心は、意識は、、、いのちそのものだ。

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いのちはなんて素晴らしい。

いのちがなければ

私は私として明確に存在することはできない。

愛する人の温もりも感じることはできない。

手を洗う水の感触も。

美味しい料理に込められた情熱も。

和太鼓の素晴らしい振動も。

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こころと身体はまるで不可分の一個のように感じられる。

まるでそれが『私』かのように。

でも、本当は、、、

微妙で確かな境目がある。

私たちはいつも『こころ』でなくてはならない。

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こころの、いのちの、作用がなければ

私たちは『私』でいられらない。

物理的なものを

一瞬にして情緒的で情感的なものに変えることができる。

それが心であり意識だ。

物に触れた時、『これを感じているのは誰か?』と考えてみてほしい。

確かな触感があるだろう。

この確かな手触り、、、感知しているのは誰か?と。

触るという行為はあくまで物理的なことに過ぎない

“私が感じる”という背後で、

『こころ』が『いのち』がいつも働いている。

身体に重なるもう一つの見えない何かを

確かに感じとることができたのは、

私にとって

人生にとって言葉で言い表せないほど

重要な経験だといのちは確かにそう伝えてくる。

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