こころがなければ五感を感じられないということ。
- 2025.09.17
- コラム

いつも心の側に立っていなくてはならない。
それが私の今回の重要な気付きです。
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ヨガをやる人、ある種の悟りに興味のある人は
“こころと身体”についてさまざまな学びを得てきていると思う。
それは知識として、あるいは体験として。
こころと身体は一対。不可分な1つだと。
どちらも重要だと。
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私もこれまで、ヨガを細く長く続けてきて、
同時にさまざまな知識を吸収して
心って?身体って?
ということに自分なりに向き合ってきた。
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小さな神秘的な体験もいろいろした。
何より多くの気付きがあった。
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だけれども、
どこか『こころ』『意識』という
(この文章ではこころと意識は同じものとして書いています)
捉えどころのないものの正体が掴めずにいた。
掴めなくて正解なのかもしれないとも思った。
でも、今日、
ようやくその体感が得られたので、
ここに書き残しておこうと思う。
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チベット聖者の教えという本の中に答えはあった。
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私なりの解釈も加えて要約する。
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私たちの心と身体は一対である。
私たちは日頃、五感(見る、聞く、触るなど)をとても重視している。
しかし、ベースはこころ(意識)の方である。
見たり、聞いたり、触って物事を感じ取ることができるのは、こころがあるからである。
こころがなければ、私たちは何も感知することができない。
というような内容だった。
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私はこの瞬間に、
これまで持っていたこころと身体に対する概念が静かに崩壊した。
これを文章にするのはとても難しい。
あいまいだが、こころと身体について強い思い込みがあった。
こころと身体は不可分一体。どちらも同じだけ他方に作用する。
確かに
身体とこころとはあまりに精妙につながっている。
だから、身体が感じたものが、すなわち心が感知したものとそんな風に捉えている。
心と身体は渾然一体で、切り離しはできないと。
それこそが『私』だと。
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でもこの本のこの箇所をを読んだ瞬間に
私の中で明確に心と身体が分離した。
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身体が送るのは電気信号である。
ある意味でこれは無機的なものに違いない。
でも、それが心に伝わると
一瞬にしてそれは有機的な温かみを持って、
まるでその感覚が自分であるかのように感じることができる。
心と身体の間にはとてつもない作用が起こっている。
身体の信号が心に伝わった瞬間、
私たちはそれを自分が感じていると認識できる。
心がなければ
そこには単に事象があるだけ、なのである。
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私はこのことがようやく理解できた。
目で見ることは脳の働きだと思っていた。
だけれども、その信号は心に届いて
ようやく私の心象に写る。それは決して無機質ではない。
ありありと、今ここにある情景として、胸に迫る。
感動が伝わる。
視覚を通して、心に届いた信号を
美しさという多面的な表情で知ることができる。
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身体の働きを感知して
より豊かに”私”を感じられるようにしているのは
心だった。
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私たちは心がなければ何一つ
人間らしく存在することはできない。
それがどんなひどい感情であれ、痛みであれ
喜びであれ、温もりであれ、
心がなければ
私たちが当たり前に享受しているものは
全て無機質なものになり宙に消える。
心は、意識は、、、いのちそのものだ。
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いのちはなんて素晴らしい。
いのちがなければ
私は私として明確に存在することはできない。
愛する人の温もりも感じることはできない。
手を洗う水の感触も。
美味しい料理に込められた情熱も。
和太鼓の素晴らしい振動も。
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こころと身体はまるで不可分の一個のように感じられる。
まるでそれが『私』かのように。
でも、本当は、、、
微妙で確かな境目がある。
私たちはいつも『こころ』でなくてはならない。
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こころの、いのちの、作用がなければ
私たちは『私』でいられらない。
物理的なものを
一瞬にして情緒的で情感的なものに変えることができる。
それが心であり意識だ。
物に触れた時、『これを感じているのは誰か?』と考えてみてほしい。
確かな触感があるだろう。
この確かな手触り、、、感知しているのは誰か?と。
触るという行為はあくまで物理的なことに過ぎない
。
“私が感じる”という背後で、
『こころ』が『いのち』がいつも働いている。
身体に重なるもう一つの見えない何かを
確かに感じとることができたのは、
私にとって
人生にとって言葉で言い表せないほど
重要な経験だといのちは確かにそう伝えてくる。
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