インフルエンザで高熱にうなされながら見たもの

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こんにちは。さきちです。

人生で初めてインフルエンザというものにかかったかもしれません。

いやぁ、めっちゃ辛いんですね!

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寝ながらお尻の筋肉が攣りました。

でも動けないし動きたくないんでそのまま寝ました。

高熱なのに汗が出なくて、身体が蒸し風呂状態でマジで死ぬかと思いましたね。

体感40℃ありましたが、もはや熱を測る余裕すらなかったです。

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そんな中、眠りにつくこともできずに

夢か現実かわからない領域をずーっと彷徨っていました。

深い眠りに入れないまま横たわり続けるしんどさ。

そしてだいたい見てるのは悪夢。

身体がしんどいから、そのままの状態が反映されてるんでしょうな。

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ただ一つ今でも鮮明に残っている映像があります。

幼い頃。

おそらく小学校受験をする際に提出する写真を撮っている場面。

白と黒の格子柄のワンピースに白い大きな襟がついている服。

短い髪。

緊張して笑えない。

あの頃の私と

40歳の私は、

夢で出会った。

私は彼女の隣に座って、必死に『大丈夫だからね』

と、声をかけた。

『受験に失敗しても大丈夫』

『ちゃんと生きられる』と。

そして『人の期待に応え続ける人生は辛いね。自分の気持ちを大切にね。』と言いました。

幼い私はこちらを見上げて不思議そうにしていました。

これから先、

私は、人の期待に応え続ける人生になる、

そしてそれにさえ気付かぬまま大人になる。

だからせめて、今だけは子どもらしくいてほしい。

そんな願いを込めて私は小さな彼女の肩を抱いた。

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私は幼い頃のある場面が忘れられない。

年長の頃、もうすぐ卒園を控えたある日。

担任の先生の膝に座って、一人ずつ記念写真を撮ることになった。

私はこの担任の先生が好きだった。

いつもは”みんな”の先生。

でもその瞬間だけは”私だけ”の先生。

私は甘えることが苦手だった。

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先生の膝に座った瞬間、

とても嬉しかった。

甘くて柔らかくていい匂いで

とてつもない安心感だった。

先生が私をぎゅっと抱きしめて

寄り添って写真を撮ってくれた。

私は照れくさそうに微笑んでいた。

その一枚の写真の映像が脳裏に今でも焼き付いている。

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誰かに愛されるって、こういうことだって先生が教えてくれた。

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私は40歳の意識で、この瞬間に飛んだ。

そして、幼い私を先生と一緒に抱きしめた。

『頑張れ』『ずっと一緒だよ』

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あの瞬間、私は、未来の私と一緒にいた。

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小さかった私も

たくさんの傷をかかえながらも大きなって

子どもを持った。

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子どもたちの中に、”自分”を見ることがある。

自分ができなかった経験を子どもたちができることに喜びを感じる反面、

正直言って、悔しさや怒りのようなモヤモヤしたものも同時に湧いてくることがある。

それは、私の中の消化できなかった子ども時代の夢がそうさせるのかもしれない

でも大きくなった私は

感情をコントロールすることができる。

子ども時代の夢を自分で叶えることもできるし、

子どもたちを虐待することもない。

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感情は理性でコントロールできるのだが、

深いところにあるもの、

息を吸うかごとくしてきた

人の期待に応えなければいけないという義務感は

実は解消できていなかった。

それは、己の存在とあまりにも同化していて

深く深く潜らなければ決して見えなかった。

そして怖くて

見たくなかったものでもある。

それがまるで自分自身の価値そのものだと信じ込んでいることだから。

それを剥ぎ取れば、自分が自分でなくなる。

期待に応えなくなる自分など

存在価値がなくなると思えたからである

でもこの身体が、消滅しそうに苦しいときに見えたものは、紛れもない真実だった。

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私はもう、親の期待に応えたくない。

それが真実だった。

もう誰の期待にも応えたくない。

感情を乱されたくない。

私の素直な気持ち。

今の私にとって、両親は過去の人。

もちろん大切な人には変わりがない。

でも、

優先順位というものがあるならば

それをまちがえてはいけない。

私が今守らなければならないのは、自分と夫と子どもなのである。

ここの境界線は引いておかなければならない。

そしてそこに罪悪感などいらない。

誰に責められる問題でもない。

なぜなら

これは”誰か”との問題ではないからである。

自分の中にある虚像とのある種の闘いであり

それをぶち壊す覚悟があるかないかの問題だから。

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この話は

誰かに頷いてほしいわけでも、理解してほしいわけでもない。

ただ、これが、己から出た本音だということを自身で記憶していたいだけである。

忘れたくないだけなのである。

誰かにとっては残酷でも私にとっては救いである。

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私は、自分がどのように振る舞えば

人から喜ばれるか、好かれるか、中心にいられるか、頼りにされるかを

呼吸をするように把握することができる。

そんなことは

自分にかける過大な理想にすぎないのに

そのように振る舞えなかったときは自分を責め、

やれやれと無理をさせ続けた。

人生の中でそうしていなかった時期を私は思い出すことができない。

それほどまでに人の目を気にして生きていた。

そのことのみが人生の意義だったから。

でももう、その舞台からは降りることに決めた。

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自分が責任を持つのは、自分だけでいい。

人の感情は、自分とは関係がない。

人のことは修復してあげなくてもいい。

喜ばせてあげなくてもいい、

無理に助けなくてもいい。

身を削って間違いを正す必要もない。

私たちは、あまりにも仮想のルールに縛られすぎている。

固定観念に縛られすぎている。

真面目に生きすぎている。

脳がブレーキをかけたがることほど、やってみるべきだったりする。

それが現実をぶち壊せる唯一の手段だったりするから。

例えば

女の子が髪の毛を男の子みたいにベリーショートにしてみること。

スカイダイビングやバンジージャンプをしてみること。

ロリータやパンクみたいに、今までの自分と正反対のファッションをしてみること。

そうすれば恐ろしいと思ってたことも、実は思ったほど恐ろしくはないことがわかるんだと思う。

世界を正反対にすることができるんだと思う。

まだインフルエンザは完治してないけど、

この経験も楽しかったよ。

まぁ、もう2回目はしなくていいけどね笑。

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