【覚醒】苦しさのワケ。その”定義”はもう要らない。

【覚醒】苦しさのワケ。その”定義”はもう要らない。

こんにちは。さきちです。

2024年3月22日金曜日 晴れ

今日は長女の卒園式。

24名全員がそろって、無事に全てが終わり奇跡のような一日でした。

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さてさて。それはさておき。

“今”を生きる私たちは、すでに晩を迎えております。こんばんナウ。

そして私は今日もブログを書くワケです。

今日は長くなります。

話したいことがあるんです。とても。

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夫とお義母さんから学んだ話です。

初めて自分なりの『覚醒体験』と言えるような体験がありました。

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私の最大にして最強の味方であり、敵は実は夫なんです

学びが深い相手とも言います。

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優しいけれど、実はとても頑固。

人の話を聞いているようで、聞かない。笑

物腰柔らかいけど、絶対譲らない。

合理的すぎる面がある。

もちろん良い面もたくさんある。

感情を抑えることができるし、責任感があって仕事は早い。

誰にでも分け隔てなく接することができる。 

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私は彼と何年も一緒にいながら、彼のあらゆる面を見てきて、

ある面では、お互いのエネルギーを大きくしながらぶつかり続けてきたのかもしれない。

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私も人知れず頑固だし、譲らないのはお互いさま。

絶対負けたくない』と心では思っている。

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だけど、一緒に生活をしていると、ときどき苦しくなって、この間も感情が暴発した。

子供の前で大泣きした。

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人は変えられないという。

だからまずは、自分を変えろと。

そう言われるよね。

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でもさ、自分を変えるって苦しい

苦しいことを自分にさせるのは…とてもしんどい。

しんどいことは、しなくていいと私は強く思う。笑

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私は少し前に、もう人に合わせないと決めた。

人に合わせると、苦しくなるから。

(これが土台となる気付き)

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だから夫にも合わせない

合わせなくていいんだと自分に許可を出した。

どんなときも。誰に対しても合わせなくていいの。

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だけど、1番近くにいる夫には、もはや無意識で阿吽の呼吸で、合わせてしまっていたと思う。(それでいい場面ももちろんある)

でもボーッとしてると自分のペースがずーっと失われてしまう。

だから『自分の心地よさ』を常に意識している必要があるんだよ。

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ここでポイント

合わせないからと言って、自分勝手とは違うんだということ。

バランスが大事。

自分の想いは伝えてみること。

自分の想いを持ったまま、相手に寄り添ってみること。

できるだけ寄り添ってみること。

苦しくならない程度に、相手のことも分かろうとしてみること。

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自分を大切にしていれば、相手も大切にすることができる。

まずは自分を見つめて、

1番大切にしたいことは何か?

と聞いてみてあげてほしい。

その上で、自分と周りの人とのバランスを取ることを考えてみる。

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私が1番大切にしたい事は『自由』。

心と身体が何からも自由である事。

これが私にとっては最も大切なこと。

これが第1の気付き

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この『自由を大切にしたい』という気づきがあってすぐに、別の気づきがやってきました。

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ここからが第2の気付きとなる話。

先日…久しぶりに”怒り“を感じた出来事がありました。

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お義母さんに預けていた次女、帰って来たら前髪が短くなっていた笑

そう、どうやらお義母さんが切ってくれてしまったらしい。

夫に『なんか前髪が短い気がしない?』と言うと

『それ、僕も思った!』と。

迎えに行った夫は特に何も聞かされていなかったらしい。

そこで次女に『髪チョキチョキした?』と聞いてみると『うん、ばぁちゃん!』とはっきり答えた笑

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みなさんはどう思うでしょうか?

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私はね最初、なんだかとても嫌〜な感じがしたんですよね。

自分でも驚くほどに。

胸の奥から出てくるモヤァ…ドロォとしたイラつき。

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勝手に子どもの前髪切るって…どうなん?って。

でも、このネッチョリしたモヤモヤを持っている自分がとても嫌だったので、

勇気を出して感情の奥を覗いてみることにしました。

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モヤモヤが、出て来たらチャンス!!

なんですよ実は。

モヤモヤチャ〜ンス!!!笑笑

なぜかと言うと、”あること”に対して大きくネガティブな反応が出るということは、

その事を介して、自分の中に不要なものがあるということを見せてくれている表れだから。

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私の中にあったのは

勝手に』切ることに対する怒り。

すなわち、子どもの髪を切るかどうか決める自由を侵されたと感じていたんです。

私が1番大切に感じている自由

髪を切るかどうか決めるのは親だ

勝手に切るのはいけないことだ

という断固とした定義(固定観念)が、私の中にあることが分かりました。

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でもどうだろう?

別に、祖母が切ってもいいよね…

次女が切らせたということは、次女はオッケーだったわけで。

次女と祖母の間で起きた事(2人の世界)であり、実際そこに私は関与しなくてもいいよなって思えたんです。

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そしてね、結局ここに介在するエネルギーを俯瞰で見たらやっぱり『』しかなかったんです。

不思議と。

だっておばあちゃんは、孫のちょっと長めの前髪が気になっちゃったわけでしょ?

目にかかったらいけんなって。

それならそれでいいじゃない。

もうここにエネルギーを注ぎ込むのはやーめたって自然と思えた。

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✔︎自分にとって嫌な出来事があったとき

✔︎嫌な言葉を言われた時とき

その出来事どう捉えるか?

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これって常に私たちに試されると思う。

(この世の問題ってむしろこれに尽きない?)

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スルーできるならそれでいい。

でも、なかなか受け流せないのが普通かなって思う。

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なぜかと言うと、それは自分の中にあるエネルギーと関連しているから。

嫌なことと同じエネルギーを自分が持っているということに対する気付きをもらってるってこと。

じゃあどう対処する?

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実は、その嫌なことをしてきた人を分析することには意味がなくて、

自分の中にある”感情の奥”を見れるかが最大のポイントになってくる。

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ここはちょっと苦しいかもしれない。

私も苦しかった。

(やり方はさっき書いたみたいに、自分が強く持っている定義は何か?

譲れないと思っていることへの枠を外すということね!)

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でも、ここで客観視できるとポーンと世界が明るく見れる

混沌から抜け出せるの。

感情のループにハマらないって、めっちゃ気持ちいいから。

自分のためにぜひやってほしい。と私は思っています。

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私がこの”自由に対する定義”をポーンと投げ捨てたあと何が起こったか?

パラレル移動が起こりました。

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これがなぜわかったか?というとね。

次の日の朝、長女の卒園祝いの飾り付けで使った3つの風船(ピンク・青・黄色)のうち、黄色だけ見事に無くなっていました。

どこを探しても見つからず、今も無くなったまま。

『小人さんが持ってったのかもね〜』

なんて子どもたちと言い合いました。

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こうして世界は『変わったよ』のサインを見せてくれます。

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そしてその日の夜。

夫が『前髪の件、びっくりしたよな〜。せめて一言言ってほしいよな。ばあちゃん(夫の母)に怒っといたわ』

と言ってきました。

私はその話題に触れても、全くと言っていいほど怒りが湧きませんでした。

ピクリとも怒りが出てこなくて、むしろビックリしたくらい。

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私は『まぁ、ばぁちゃんも前髪が気になっちゃったんじゃない?』と返しただけ。

むしろ怒らなくてもいいよ、くらいの気持ちでした。

その瞬間『あぁ、私、自分の世界を変えたんだな』と思えました。(大袈裟でなく)

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長々語りましたが、自分できちんと意識して対処できたことで自信がついた出来事でありました。

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私の一番大切にしたいことに対する枠を外したことで、これからもっと楽に生きられるとそう感じています。

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“こうでなければならない。”

私たちは無数にこの定義を持っています。

でも、本当に?

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自分が苦しくなるなら、それは実際不要なものかもしれない。

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そんな意識でその枠と向き合ってみて、外した先の軽くなった自分に興味が沸いたら、

思い切って外してみてもいいかもね!というお話でした。

外すと気持ちいいよ!

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ではまたね。

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