時代を超えてもやりたかった愛のカタチ

時代を超えてもやりたかった愛のカタチ

こんにちは。さきちです。

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自由な心があればなんでもできる。

“わたし”だと思っているここにいるわたしは

実は”固定化したわたし”ではなく

流動的であり、緩やかな集まりである事をわたしは知っている。

いつでも変わりうるし

変わっても良いもの。

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わたしだと思っているわたしが

本当はわたしでないなら

わたしは誰なんだ?

そう思うこともある。

その答えは過去に生きていたご先祖であり、

その周囲にあった自然であり、当時食べたものであり

その世界にあったさまざまな意識である。

さらに言えば、未来から流れてくるさまざまな情報でもある。

わたしとして集まりたい粒子の緩やかな集まりである。

さりとて、核となるものがなければ

粒子は形を為すまでに集まることができない。

結合することができない。

核となるのはある種の”想い”であり意識である。

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そこにある”果たしたい想い”はなんだろう?

そう自分に問いかけた時

時を超えて

何千個、何万個ものエゴを外して

この緩やかなわたしの核を為す想いは

『育むこと』

だった。

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育むことは

自分の命を分け与えること。

植物にしても動物にしても人間の子どもにしても

小さかったものが徐々に大きくなるさまは

わたしにとっては

無条件に感じる喜びだった。

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わたしはかつて

『子どもなんか産むもんか』と母に言ったことがある。

なぜなら

母に『3人も産むんじゃなかった』と言われたからだ。

母の本意でなかったとしても

当時の私は傷ついた。

そして、私も母にやり返すためにそう言ったのだ。

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胸が痛んだ。

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結婚したら

夫の子どもを見たいと思うようになった。

父になった夫を見てみたかった。

子どもが生まれたら、とてつもなく可愛かった。

同時に育てることへのプレッシャーと母としての責任感が重たく感じた。

だけれども、子どもたちの姿は眩しい光そのもので

私の心はどんどん磨かれた。

元のわたしに戻っていくようだった。

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わたしは母としても人としてもまだまだ未熟だ。

だけれども

彼女たちと成長できることに心からの喜びと

そんな経験ができる自分に、見えない世界からの祝福を感じている。

緩やかに存在する”わたし”という存在が

身を賭してもやりたいと願ったことが

これだったに違いないとようやく確信することができた。

なぜだかわからない。

理由がない。

お金もかかるし労力もかかる。

妊娠の度に身体に負担がかかる。

感情だってあちこち乱れる。

普通の人ならきっと

こんなことを何度もやりたがらないだろう。

だけれどもこれまで女性は、

かつての母なる人たちは皆、

これを繋いできてくれた。

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今世ここにいるわたしも

育むことを決してやめたくないと魂が震えている。

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これからの世の中がどうなるのかわからない。

ただ、良い方向に向かうための過渡期で

一見悪く感じることも多いだろうと予想できる。

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だとしても

わたしは育むことをやめない。

全身全霊でこの次の世代と向かい合っていきたい。

それが私が今世やりたかったこと。

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