時代を超えてもやりたかった愛のカタチ
- 2025.03.06
- コラム

こんにちは。さきちです。
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自由な心があればなんでもできる。
“わたし”だと思っているここにいるわたしは
実は”固定化したわたし”ではなく
流動的であり、緩やかな集まりである事をわたしは知っている。
いつでも変わりうるし
変わっても良いもの。
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わたしだと思っているわたしが
本当はわたしでないなら
わたしは誰なんだ?
そう思うこともある。
その答えは過去に生きていたご先祖であり、
その周囲にあった自然であり、当時食べたものであり
その世界にあったさまざまな意識である。
さらに言えば、未来から流れてくるさまざまな情報でもある。
わたしとして集まりたい粒子の緩やかな集まりである。
さりとて、核となるものがなければ
粒子は形を為すまでに集まることができない。
結合することができない。
核となるのはある種の”想い”であり意識である。
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そこにある”果たしたい想い”はなんだろう?
そう自分に問いかけた時
時を超えて
何千個、何万個ものエゴを外して
この緩やかなわたしの核を為す想いは
『育むこと』
だった。
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育むことは
自分の命を分け与えること。
植物にしても動物にしても人間の子どもにしても
小さかったものが徐々に大きくなるさまは
わたしにとっては
無条件に感じる喜びだった。
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わたしはかつて
『子どもなんか産むもんか』と母に言ったことがある。
なぜなら
母に『3人も産むんじゃなかった』と言われたからだ。
母の本意でなかったとしても
当時の私は傷ついた。
そして、私も母にやり返すためにそう言ったのだ。
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胸が痛んだ。
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結婚したら
夫の子どもを見たいと思うようになった。
父になった夫を見てみたかった。
子どもが生まれたら、とてつもなく可愛かった。
同時に育てることへのプレッシャーと母としての責任感が重たく感じた。
だけれども、子どもたちの姿は眩しい光そのもので
私の心はどんどん磨かれた。
元のわたしに戻っていくようだった。
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わたしは母としても人としてもまだまだ未熟だ。
だけれども
彼女たちと成長できることに心からの喜びと
そんな経験ができる自分に、見えない世界からの祝福を感じている。
緩やかに存在する”わたし”という存在が
身を賭してもやりたいと願ったことが
これだったに違いないとようやく確信することができた。
なぜだかわからない。
理由がない。
お金もかかるし労力もかかる。
妊娠の度に身体に負担がかかる。
感情だってあちこち乱れる。
普通の人ならきっと
こんなことを何度もやりたがらないだろう。
だけれどもこれまで女性は、
かつての母なる人たちは皆、
これを繋いできてくれた。
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今世ここにいるわたしも
育むことを決してやめたくないと魂が震えている。
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これからの世の中がどうなるのかわからない。
ただ、良い方向に向かうための過渡期で
一見悪く感じることも多いだろうと予想できる。
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だとしても
わたしは育むことをやめない。
全身全霊でこの次の世代と向かい合っていきたい。
それが私が今世やりたかったこと。
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