【師走】時は矢のように過ぎゆく。今大事にしている想いとか。
- 2023.12.11
- コラム
こんにちは。さきちです。
2023年12月11日月曜日 くもり(強風)
3日まえにブログ書いて、今にワープしたか?ってくらい時が過ぎゆくのがはやい。
相変わらずいろいろな夢は見ているのだけれど、それすらメモに取るだけで考える暇もないくらい。
だけれども、なんとなくブログは書いておいた方がいい気がして、書き残すことにする。
一つ前の記事(追伸)で『思考を超える』という話を書いたと思うのだけど、
そのときの”思考をを超える”とは、あれこれ思案するのをやめてフラットでいる。あるいは心静かにする。というようなことを指していたと思う。
今回のお話は”思考を超える”というテーマの中でも、それとはまた少し違った話の内容になると思う。
それではいってみよう。
私のように思考がガチガチの世界で生きてきた世代は、なかなかすぐに思考の外に出ることは…もしかしたら難しいのかもしれない。
だけれども、このことはかなり重要だと思う。
ともすれば、人生で2番目くらいに大切なことかもしれない。
1番目は自分を愛すること
2番目は思考を超えること(超えようとすること)
3番目はこの世界はすべては粒であり波である。ゆえに周波数を意識すること。
『思考を超える』ということには、大きく言うと2つあって
①つはあれやこれやと考えすぎるのを止めること(前出)
②つには、二元論から脱することであり、あいまいさを受け入れること。(世間の常識や価値観を疑うこと)
これから話すことは②との関わることです。
二元論とは物事を白か黒かで判断することで、私は昔からよ〜くやりがちでした。
良いか悪いか、合格か不合格か。
可愛いか可愛くないか。笑
みたいなね。
でも考えてみたら、この線引きに使う物差しはなんなのだろうか?
私は一体何を基準に物事を判断しているのだろう?
いや、そもそも自分は何を知っているというのだろう?
…
私たちは、実は、ほとんど何も知らない。
そのことを知っていれば、人や物を容易く良いか悪いかなどと言えないはずなのに。
(自分は何も知らないし、誰も何もしらない。そうならば…)
立ち返って、自分以外の体験は、はなから信じる必要がないのかもしれない。
物差しは自分の素直な心以外にはない。
そんな風に心に留めておく必要がある。
そして、私を含めた多くの人の判断基準としての”鍵”となっているであろう世にいうルール。
それは「守らなければいけない」と親や先生やその他地域の人とかテレビとか、そりゃもういろんなところから言われてきたもので、
疑うことすらせず受け入れてきたものだけれど。
『でも、なんで?』
この質問はとても重要だと思う。
今、娘たちがなんでも私たち親に問うように。
ルールは物質として目に見えているものではないのに、みんなの中に確実に”ある”。
見えない世界を信じない人も、ルールは守る。
私たちをずっと、取り囲んでいる”それ“はなんだろう。
もしも取り出して並べることができたなら、一人一人確実に違うものだと思う。
常識やら道徳やら礼儀やら”おしえ”や”マナー”、文化。
自分の中にあるそれらを改めて見つめてみると、必要以上に自分を締め付けているものがあるかもしれないよ。
人は本来、自分自身のために生きていいはずなのに。そこにブレーキをかけているのはなんだろう?
自分勝手と誰かが言った。
無責任と非難される。
やろうと思ったことができないのは、
本当にできなくて仕方ないことなんだろうか。
一般的?普通?を求めるのに個性は出せ?
なんじゃそりゃそりゃ。
一般的からはみ出さない個性ね。はいはい、分かってますよ。とね。
ルールというものの存在意義を、もう一度自分に問いかけてみて。
日常でのあらゆる行動の際に、何か心に引っかかることは、いちいち自分に問いかけるといい。私もよくしています。
自分はどうしてこれをしているのか?なんのために?なぜしたいのか?するべきなのか?
なぜお皿を洗う?
なぜ水を飲む?食事をする?
なぜこの服を選んだ?
自分と常に一致しているかい?
自分の真ん中にちゃんと居るかい?
そしてね、自分が”今”を生きるための心地よい空間と人との関係を築けると良いと思います。
そんな風なことを考え実践している日々。
ではまたね。
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