【自己愛とは?】自分が「観念の塊」であることに気づくだけで、すんごい解放が起きた。

【自己愛とは?】自分が「観念の塊」であることに気づくだけで、すんごい解放が起きた。

こんにちは。さきちです。

 

数日前から「自分を愛するってどういうことだろう」と考えていました。

 

なんでかというと

今回の人生において

自分にとっての重要な課題であり、

 

単に「自分に優しくする」というだけでなく

もっと根本的に知る必要があることがあるはずだ

そんな気がしていました。

 

そして今この「目覚める」という時代のフェーズにおいて

自分を受け入れ、

自分を愛することができるようになれば

 

おのずと世界がスピーディに変わっていくだろう。

ということに気づいたからなんです。

 

で、今日答えとなる”鍵”を手にしたので

取り急ぎシェアしようと

 

とるものもとりあえず

(買い物帰りの車で答えが降りてきたから)

冷蔵庫に買ったものもしまわずに

(どんだけ急ぐ)

 

キーボードをたたいています。

 

では、早速いこう。

この世界が自分の観念でできていることに気付け

まず大切なのがこの部分。

自分の観念で、この世界は創られているということ。です。

もはや観念しかないと言えるくらい。

 

あなたがこの世界で正しいと感じているもの。

良いと思っていること。

良くないんじゃないかと思っていること。

「こうでないといけない」と無意識で感じていること。

 

そして

自分の中にあるネガティブに感じていること。

(「イヤだ」「嫌いだ」「見たくない」と感じている部分。)

 

それは、なぜですか?

なぜ、そう思っているのですか?

 

私も自分自身に問いかけてみました。

 

なぜ私は私を丸ごと愛せないのか。

変わらなければいけない。

このままではいけないと感じるのか。

 

私の中の私が答えました。

 

それは…

自分の中の理想と違うから。

 

ではその「理想」とはなんなのですか?

誰が決めましたか?

 

わかりません…

 

自分だと思っていたけれど。

 

もしかしたら…

 

小さいころに親から聞いたことや

友達に言われたこと

学校で習ったこと

TVや雑誌などのメディアで見たこと

 

無数の情報から得た知識によってつくられた”何か”が

影響しているのかも。

 

そう。

この「無数の情報から得た知識によってつくられた”何か”」こそ

観念であり幻想だということに、私は気づいたのです。

 

観念とは相対的なものでしかない

私は小さいころから

背が高い

ということがとてもコンプレックスでした。

 

背が伸びるのがとても速くて

幼稚園では背の順でいくと、

もうすでに一番後ろに並ばされていました。

 

それから小学校も中学校もずーっと一番後ろでした。

 

「でかっ」

初対面の友達にはほぼほぼそう言われ

新しい場所に行くのが苦手になりました。

 

大きい子は可愛くない。

周囲の人から可愛がられない存在。

 

そうインプットされました。

(だいぶ被害妄想的ではあるけれど(笑))

 

私が男の子だったら…

外国に住んでいたら…

違ったのに。

 

早く大人になりたい。

そう思い続けてきました。

 

大学生くらいになると

かなり楽になりましたが

 

それでも深く根付いたコンプレックスは

ともすれば

自己否定に繋がっていくように感じていました。

 

このコンプレックスについて

 

私は

私が男の子だったら

外国に住んでいたら

「普通」なのに。

気づいています。

 

でも、ただ気づいているだけじゃなく

ここを腹から理解することがとっても重要です。

 

私たちの世界(自分から見えている世界)は

自分にしか理解できません。

 

パートナーであっても

その世界を覗くことはできないのです。

 

だから

この世界は自分で「思っていること」=観念

がすべてであり

むしろ、自分で思っていることしか反映されてない世界

とも言えます。

 

良いも悪いも

好きも嫌いも

正も負も

 

すべて自分の中で構築された指針(ある観念)によって

判断しています。

そして判断したことに基づいて

また考えたり行動したりしているのです。

 

ならば、この「観念」とやらを理解すれば

自分の世界は攻略できるはず!

 

膨大な観念で出来上がった世界

私たちの身体は38兆個の細胞でできています。

そして細胞の一つ一つには意識がある、とも言われています。

 

仮に、この細胞一つにつき、一つの観念があるとするならば

私たちは38兆個の観念を持っています。

 

すんげ~膨大の観念。

 

そのたった一つの観念のバグみたいなものが

自分の人生を左右するコンプレックスになっているとすれば

とてもばかげていませんか?

 

たった一つの名もなき観念が

自分の感情や行動を制限し、

起きている間中、ずっと不自由にしているとしたら…?

 

そもそもこの「観念」というものが

ところ変われば

文化が変われば

人種が異なれば

性別が異なれば

180℃違う、反転した評価を受けるものだということに

気付きさえすれば、

 

この世は、不確定なものでしかない。

 

この私たちが無数に持っている不確定な観念は

すなわちすべて幻想だと理解することができるはずです。

 

どうでしょう。

観念=幻想だと

腑に落とすことができたでしょうか?(^v^)

 

観念を手放すと自分を愛することができる

さあ、このお話もいよいよ核心です。

 

この無数に存在し

私たちの世界を創っている観念が

幻想だということに気づいたなら、

 

私たちの中にある「嫌いだ」と感じる部分や

「直さないといけない」と思っている部分、

「ネガティブ」に捉えている事柄も

 

すべて観念でしかなく、

ゆえに幻想であるということが分かると思います。

 

そうであるならば

「自分はこのままでいいんだ。」

ということも認められるのではないでしょうか。

 

 

自分は素晴らしい存在だ~!

とまでは思えなくても

 

「自分、このままでええやんね」

と許してあげることはできるはずです。

 

これがとってもとっても大きな一歩だと

自分の世界を揺るがすほど大きな前進だと

私は思います。

 

これまでの人生でずっと

 

得も言われぬ劣等感を感じ続けていた人も

自分を卑下していた人も

罪悪感を拭えず、

自分を責めることが止められない人も

 

その原因と感じるもののすべてが

これまでの人生において

無意識下で受け取った(無意味な)膨大な情報でできた

観念=幻想からくるものである

ということに気づいたとき、

 

きっと

その原因となる何かから解き放たれる

私は確信しています。

 

「私を縛っている!」

と思っていた強固な鉄の鎖は

 

よく見たら

なんでもない、

いつでもほどけるゆるんだ麻ひもだったんです。

 

だから

もし苦しいなら

みんなで一緒にその観念を軽~く手放そう。

 

そうしたらきっと

今よりもっとずーっと楽に生きられるはずです。

 

あなたは

そのままで

すでにすばらしい。

 

それを忘れないで。

ではまたね~。

 

 

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