私が抱えている根深い観念

私が抱えている根深い観念

こんにちは。さきちです。

子どもたちを見ていると、自分が持っている観念が浮き彫りになることがある。

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マイペースな長女を見ていると、

時間通りに学校のことがこなせているだろうかとか

椅子にちゃんと座れているだろうかとか

先生に言われたことをちゃんとわかっているだろうかとか

この世界で私が教え込まれたあれこれが浮かんできて、怒涛のように彼女に当てはめたくなってくる。

登下校の際に、水たまりに入ってバシャっ!とやったり、

あるいは一緒に行き帰りする仲間と1人離れて歩いたり、

道端の綿毛を見るたびに吹いて飛ばさずにはいられなかったり、

側から見て『大丈夫か?』と思うような行動に私たち大人はヒヤヒヤしてしまう。

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入学式のときも大股を開いて座る長女に

ちゃんと椅子の座り方を教えておけば良かった…と耳が赤くなりそうだった笑

ある程度、常識の範疇は教える必要があるし、危険は避けなければならない。

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だけど、無邪気な彼女を見ていると、どこかで私の観念が違うのでは?という違和感も感じる。

なぜ水たまりを歩いてはいけないか?

なぜ椅子には落ち着いて座らなくてはいけないのか?

なぜ友達と一緒に行動しなくてはいけないのか?

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私たちには『こうすべきだ』とか『普通こうである』とかいう無数のルールがある。

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そういったルールの中でも

特に私が強く持っている観念。

それが

周りと違ってはいけない。”

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子どもたちのおかげで、わたしは自分にとっての深く根強い観念をまた手放すことができる。

他の子と違っても構わない。

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教室ではある程度、静かにしておく必要があるし、前を向いて座らなければならない場面も多い。

でも他のときは、、、別にいいだろう。

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足並み揃えてできなくてもいい。

すぐに理解できなくてもいいし、やりたくないときだってある。

人に褒められなくてもいいし、点数が良くなくてもいい。

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私が幼い頃に『より早く出来の良い子に』という周りのプレッシャーに応えようとしていたことを思い出した。

プレッシャーに負けまいと自分なりに頑張ったけれど、できないものはできない。

できないと子どもなりに落ち込む。

なにより両親や、教えてくれた先生に申し訳なかった。

そして、うまくできなくても、陽気に振る舞うことを覚えた。

これが、自分を自分でなくした瞬間だっだと思う。

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子どもたちのことを、私の物差しでなるべくなら計りたくはない。

私が正しいとも思わない。

この観念は、もう不要だ。

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私は彼女にどう接したい?

信じて見守りたい。

ガミガミ言いたくないし、優しく懐の深い人でありたい。

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きっと彼女は、できるタイミングでできるようになるし、

良き友達とも必ず巡り会える。

自分が自分らしくいるならば、必ずそうなる。

私もそうだった。

必要なことはできるし、必要でないことはできない。

そして、出会うべき人には出会うようになっている。

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だからわたしは、

長女が長女らしくマイペースに笑顔で過ごせるようにサポートしたい。

『学校楽しい!』と言えるようにね。

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お母さんが、やるべきことは

何かを教えることじゃない。

どんなときも近くにいて、励まして、笑って、抱きしめること。

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彼女なら、大丈夫。

絶対にね。

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